bluebirds

音楽評論ブログ、ブルバへようこそ。

さまざまな想いがありますが、

 自分なりに書いてみようと、思います。

 近鉄の伊勢志摩へ、しまかぜやら、近鉄特急で、遊びに来てね、という、近鉄のコマーシャルを、山崎まさよしが担当しています。

 おととい、アルバム『Quarter Note』が、リリースになりました。あたしが、山崎さんと言われて、真っ先に思いつくのが、やっぱり『月とキャベツ』の主題歌だった、「One more time, One more chance」だったりしますね。

 20歳になる年の曲でした(1997年ですね)。いつも、富田という近鉄の、急行が止まる駅で、特急が止まらないことに、酔いしれながら、歌に浸ったものでした。

 結構、ついていない少女だったあたしは、当時を思い返すと、ちょっと悲しいのです。まあ、事実そうです。会いたい人がいて、寂しく、あんまり周りに恵まれていないように、思い、悩ましい日々でした。しばらく後からは、単にあたしの人生なので、良いのですが。なんか、頭痛がするたびに、死んじゃうんじゃないかな、とか、よく思い、今、思い返しても、全然、間違えていなかった、そのあたしの状態に、感動しています。

 結局、怯えていた、頭痛の悪化からくる、なにがし、という病気は、あたしにはないのでした。有り難いです。

 今と、良いところは一緒ですが、寂しいところは、違いますね。いつもありがとうございます。

 その頃、画面の向こうのミュージシャンたちが、大好きになり、理想を抱くようになりました。立派な自分だと思います。

 当時の、あたしが、今、見ても、信じてきた通りだと、大喜びしてくれると、思います。

 あたしの、父母は、晩婚で、40歳の頃には、普通親がいないのは、基本的なことでした。けれど、40歳まで、生きていてくれた、父が、母よりは大好きな、あたしです。けれど、母のことも、深く理解し、細やかに尊敬し、好きですし、愛しています。

 寂しいですが、忍耐。そう思っています。明るい人だなあ、と、もう何年も、あたしは、あたしに、言って聞かせるように、なりましたね。

 母は、山崎を気に入っていて、嬉しそうにしていました。あたしが、普通に、思い描く、あの頃の自分は、案外、生きやすい方の、泣き顔じゃない、頑張れ、が、口癖の。いい少女だったように、覚えています。

 自分の影を踏む、というのは、ちょっと気違いな行動だと思います。あたしは、しないですね。でも、影が、付き纏う際には、せざるを得ない作業であろう、と、あたし、シェリルもそう思っています。

 ちょっと今日は腱鞘炎が痛いのですが。

 山崎まさよしの故郷は、山口県防府市というところです。お若い頃、夢を抱き、小さな頃から、ポール・マッカートニーが憧れで、立派な、シンガーソングライターになりたいと、ギターを担ぐ覚悟を固め、ステディな彼女がいて、置いて上京し、悲しい別れを辿った、そんな天才よりも凄い、神様のような音楽家、それが山崎まさよしです。あたしは、よくご存知あげています。

 男やもめでした。愛を貫いた、この世で一番、素晴らしく一途な、シンガーソングライターです。あたしは、よくご存知あげています。

 夢に叶い、恋に敗れた。晩婚だった彼です。