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Mr.Children『深海』(96.06.24)

深海


 <シーラカンス/君はまだ深い海の底で静かに生きてるの?>「シーラカンス

 この印象的な歌い出しで幕を開ける今作は、現時点での彼らにとって唯一のコンセプトアルバムである。『深海』。これは深層意識のことだろう。96年6月に発売されたこの作品は、社会現象とまで呼ばれた大ブレイク以降、初のアルバムとなる。彼らにとって最大の転機となったこの作品。そのリリース時の衝撃は本当に大きなものだった。当時問題作と呼ばれた今作。「ミスチルファンの踏み絵」とまで呼ばれたその凄絶さは、あまりにも生々しくシーンに突き刺さった。

 ブレイク直後の彼らのシングル群は、桜井の自我が投影されているとは言え、まだ十分にライトさを残したものだった。しかし、今作は大きく異なる。今作で頻出する<シーラカンス>という言葉。これはある概念の比喩である。愛、自由、希望、夢。絶対の肯定の象徴。これらの概念を、彼は捉え直す必要に迫られたのだ。その原因は、邪淫の恋をしたせいだった。そこから生じる罪悪感。いつか夢見たもの。欲しいと願ってきたもの。墜ちていく自分。その可逆的な位相差。そこから来る絶望と切望が、この作品の主題となっている。

 その後表出するように、彼は本質的に優しい人である。21世紀に入ってからの彼の作風、それこそが本来の彼の資質を示している。けれど、侵した罪の大きさが、彼を自己否定に走らせ、そしてその結果として自己断罪のように作られたのが今作である。自虐的、いや、むしろ自傷のようにつづられたこの作品、その最後に桜井は死を夢想する。

 印象的なジャケットは、アンディ・ウォーホルの作品にインスパイアされたもの。深い海の底に沈む椅子。かつて存在したもの、今はもう存在していないかもしれないもの。けれど、それが存在していないとしても僕は生きて行かなければならない。

 だけど、願わくはその元へ帰りたい−。いつか欲したもの。今も欲しているもの。そこから遠ざかっていく自分。パンドラの箱の底には希望だけが残っていたという。椅子はそもそも座るためのものである。それが例え無人であったとしても。その絶望のどん底で、夢想する願いは何なのか…。もしかしたら、空席には誰かが座るのかもしれない。